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2019年
06月06日
14:54

安倍首相が「伊藤博文」と並ぶ?

本日、安倍首相が通算在職日数で「伊藤博文」と並んだ。

伊藤博文といえば初代首相で明治の元勲。

4度にわたって宰相をつとめた彼の通算在職日数は(2720日)。

本日、安倍首相が並びました。」伊藤は尊皇攘夷から開国派へ、薩長藩閥のボスから政党政治家へと180度立ち位置を変えた変幻自在の人でした。安倍首相と同じ山口県の出身でもあります。


長州藩(山口藩)で生まれた伊藤博文は、農民出身でした。父の養家の関係で足軽の身分を得たものの、正規の武士(下士官以上)の下働きといった立場でした。
吉田松陰が主宰する松下村塾に学び、同じく低い身分の山縣有朋と出会います。

正式な藩士であった高杉晋作にも知遇を得て尊皇攘夷思想に一時凝り固まって高杉とともにイギリス公使館焼き討ち事件を起こすなど今でいえば若きテロリストでした。

 他方、向学心旺盛な彼は尊攘思想はそれとして海外を見聞したいという希望を持ち、藩に認められて何と焼き討ちしたイギリスへの留学が認められたのです。

英で超大国の偉容を知り尊攘派から脱し、帰国後は「英語の伊藤」として渉外などで力を発揮。倒幕・新政府樹立の立役者である同郷の木戸孝允のバックアップを得て明治新政府の要職を歴任しました。

 次の1万円札の図柄となる渋沢栄一が尽力したアメリカの銀行制度を採用して銀行券を発行する第一国立銀行設立に法整備面から手助け(国立銀行条例制定)してもいます。

 1871年、当初は幕末の不平等条約改正を目的としていた岩倉遣外使節団の一行に選ばれて米欧を回ります。同じ使節の大久保利通(薩摩藩)とここで親しくなったようです。
途中、普仏戦争勝利で意気上がるドイツを訪問しビスマルク首相と面会しました。
これが後の憲法制定につながっていきます。

しかし1877年に木戸が病死、薩摩の西郷隆盛が西南戦争で戦死、そして大久保利通も翌年、不平士族に暗殺(紀尾井坂の変)されて維新の第1世代が相次いで世を去りました。

伊藤は陸軍の中心となっていた山縣有朋とともに長州閥を引き継ぎ、黒田清隆ら薩摩藩閥と組んで政界の中枢を占めていきます。

 こうした権力構造に異を唱えたのが板垣退助(土佐藩)や後藤象二郎(同)らの自由民権運動です。

西郷挙兵が失敗し軍事力での転覆が難しいと悟り、言論で薩長藩閥に立ち向かいました。主な要求は当時欧米列強が備えていた議会政治導入や憲法の制定です。
成功すれば薩長という地縁による寡頭政治が打破できると踏んでいたのです。

 これに加わったのが大隈重信(佐賀藩)で国会即時開設を主張して消極的な伊藤と対立しました。折しも薩閥の黒田が開拓使の国有物払下げ事件という贈収賄疑惑の渦中にあって世論も猛反発し大隈も板垣も同調します。
薩長関係を壊せない伊藤は窮余の策として81年、大隈を追放(参議罷免)する代わりに10年後の国会開設を公約する勅諭を出すという足して二で割る提案で落着をはかったのです。

 野に放られた大隈の憤激はすさまじく翌年に立憲改進党を結成して来たるべき政党政治に備えるとともに東京専門学校(後の早稲田大学)も開学しました。

さて辛くも「10年」という時間を得た伊藤は日本にふさわしい制度を探るべく1882年から欧州各国の憲法調査に赴きました。
ウィーン大学のシュタイン、ベルリン大学のグナイストと弟子のモッセなどからドイツの憲法を学びます。

 帰国後の1884年に華族令を制定。旧公家・旧藩主以外に新たに維新の功労者を華族に含め、上院(後の貴族院)の準備としたのです。
そして1885年、これまでの太政官制を廃して内閣制度を創設。初代総理大臣に就任しました。
  • 雑学

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