れっつごー! 日本の名城散歩(真田の城編)#6

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今回は、「日本100名城」、「続日本100名城」のうち「真田家に関連するお城」についてご紹介したいと思います。

「真田家」と言えば、《祖 真田》真田幸隆(ゆきたか)、《父 真田》真田昌幸(まさゆき)、《兄 真田》真田信之(のぶゆき 後に、信幸(のぶゆき))、《弟 真田》真田信繁(のぶしげ 後に、幸村(ゆきむら))の名前が有名でしょうか。もちろん他にも名を馳せた武将はいたと思いますが、今回は「真田三代」と言われた《祖 真田》《弟 真田》の武将に関連するお城についてご紹介したいと思います。
最後に、お城ではありませんが、「真田家」と関わりがある場所が、南橋本より遠くない場所にありますのでご紹介したいと思います。

今回も最後に「Google Earth」を使用した動画もありますのでお楽しみください。
“もし、自分が空を飛ぶことが出来たらこんな景色なのかなぁ~” って感じで、空の旅をお楽しみください。(もちろん、〝地球全体“は見ることが出来ませんけどねぇ…(笑))

今回ご紹介するお城は

  1. 上田城
  2. 松代城
  3. 大阪城
  4. 名胡桃城
  5. (おまけ)三増合戦場

では、本題の「日本の名城散歩(真田の城編)」を始めるとしましょう。

 

《1.上田城》  長野県上田市

【訪問記】 訪問日:2016年9月

このお城は元々《父 真田》真田昌幸が築いた城だそうですが、「関ヶ原の合戦」の後、一度取り壊されてしまったそうです。現在の「櫓」の一部は後に「千石」氏が築いたものが残っているのだそうです。
「上田城」と言えば、「上田合戦」で、徳川軍の大軍に対し、多勢に無勢ながら勝利し、“真田”の名を世に知らしめた戦の場であったことで有名です。「関ヶ原の合戦」の際も、関ヶ原へ進軍する徳川軍を足止めさせたとのこと。
真田家は、「上田合戦」となるまでは、《祖 真田》真田幸隆が“武田信玄”に仕え、《父 真田》真田昌幸が信玄の側近として活躍した後、紆余曲折を経て“織田信長”から“徳川家康”に仕えた歴史があります。
では何故主君である“徳川家康”と戦うことに(上田合戦)なってしまったのでしょうか。
それは、群馬県北部で“徳川”,“後北条”,“上杉”が主権を争っている中、「沼田城(昌幸が戦で獲得した城)」を、“徳川”が勝手に“後北条”に明け渡すことで和睦したことに
“真田”は立腹し、“徳川”と対立し「上田合戦」に発展することとなってしまったようです。
このお城には、“お城の傍らは急峻な崖となっていて、自然の要害となっていること。”
また、“堀の跡に昔は電車が走っていた”ことに驚かされました。

崖下からの眺めはこちら☟ 電車が走った堀跡はこちら☟(トンネルを電車が通過していたそう…)

 

 

 

 

《2.松代城》  長野県長野市

【訪問記】 訪問日:2016年9月

「このお城は、“武田信玄”が「海津城」として「川中島の戦い」に向けて築城したことが始まりです。その後、時は流れ「関ヶ原の合戦」、「大阪冬・夏の陣」を経て江戸時代になり、《兄 真田》真田信之が移り住み新たな拠点としたお城だそうです。その後、子孫(真田幸道)が「松代城」と名前を改めたそうです。
「真田家」を語る上では、「関ヶ原の合戦」で“《父 真田》真田昌幸” “《弟 真田》真田信繁(幸村)”が西軍(石田軍)、“《兄 真田》真田信之(信幸)”が東軍(徳川軍)に別れて戦った、“真田家の存続”のための戦国時代ならではの“厳しい現実(悲しい現実)”を無視するわけにはいきません。江戸時代(徳川時代)になり厳しいお咎めもなく城主となった“《兄 真田》真田信之(信幸)”の心中はいかがなものであったのでしょうか。正直想像できませんよねぇ!
お城は、明治の「廃城令」により取り壊されたのですが、“武田”時代の作り方を模して復元されています(門以外の建物はありません)。現在の規模は「えぇ~小さ~い」かもしれませんが、深く重い歴史を背負った城かもしれません。(傍には「真田宝物館」があります。)

「真田宝物館」☟

 

 

 

 

《3.大阪城》  大阪府大阪市 

【訪問記】 訪問日:2018年9月

大阪城」と言えば、“豊臣秀吉”が築城した城(後に“徳川秀忠”が破壊後に新たに築城)であることは有名ですが、今回は、“真田家”に注目したいと思います。
「関ヶ原の合戦」で西軍が敗れてしまい、苦境に追い込まれた《父 真田》《弟 真田》ですが、“豊臣秀頼”と母“淀君”が「大阪城」にいる限りこの城と豊臣家を守ろうとしたようです。
やはり、この城で“真田” を語るならば、「大阪冬・夏の陣」での“《弟 真田》真田信繁(幸村)”の「真田丸」でしょうか。「大阪城」の“出城(でじろ 本城(大阪城)とは別に、周辺の重要な場所に築いた小規模な城(砦のようなもの))”として築かれたものです。
攻め入る徳川軍をかなり苦しめたようです。
このあたりの話は、大河ドラマで放送されたこともあり、皆様もよくご存じかもしれませんね(笑)。
推定地を訪問してみたところ、石碑などはあるものの、遺構は判らなかったです。

石碑はこちら☟

 

 

 

 

《4.名胡桃城》  群馬県利根郡  【続日本100名城】

【訪問記】 訪問日:2018年4月

「なぐるみじょう」と読みます。
「真田の城」とは少々毛色が違いますが、「真田」絡み「神奈川」絡みということでご紹介したいと思います。
時代は少々遡ります。“豊臣秀吉”が関白となり、全国統一を進めていた頃、群馬県の利根川を挟んだ「沼田城」「名胡桃城」を“後北条”と“真田”が取り合っていました。同じ頃“豊臣秀吉”は、武士同士が争うことを禁ずる「惣無事令(そうぶじれい)」を出します。秀吉は争っていた両氏を調停し、「沼田城」を“後北条”、「名胡桃城」を“真田”としますが、それに不満を持った“後北条”は「名胡桃城」に攻め込み不法占拠してしまいます。これに怒った秀吉が“後北条”征伐を開始するのです。これが「豊臣秀吉の小田原攻め(=小田原征伐)のキッカケです。(「小田原城」については、このシリーズの「神奈川編 #3」を。こちら☞(前回の投稿は★こちら★)この地域は、色々な争いのキッカケとなってしまったようです。(前述の「上田城」の「上田合戦」も…)
このお城は、当時も城といっても天守などの立派な建物はなく、兵が寝泊まりする建物がある程度だったようです。(それを“取り合う”ということは、かなり重要な場所だったのでしょうねぇ)現在も建物はありません。しかし、立派な「空堀」があるほか、城作りの基本となる防御施設があります。(“マニアックな城”なのでしょうかねぇ(笑))

 

《5.(おまけ)三増合戦場》  神奈川県愛甲郡

【訪問記】 訪問日:2018年3月

「みませかっせんじょう」と読みます。
こちらも江戸時代より前の話となりますが、“《父 真田》真田昌幸”が“武田信玄”の家臣であったころ、信玄は小田原の“北条氏政”を攻めた際、長期戦を避け一度撤退します。しかし、信玄はここ三増の地で北条軍が自らの退路に先回りしているのを知り、ここに本陣を置きます。そして、“武田”vs“後北条”の戦となりますが、《父 真田》真田昌幸”が「一番槍(槍を使って一番最初に手柄をたてた)」の戦功を挙げたようです。
“みなはし”から、そう遠くはない距離で“真田”が活躍していたとは…。
現地に行ってみると、石碑が無ければ “ただのノッパラ” です…が、そこは皆様の想像力を全開でお願いします。(笑)

では最後に、以下の▶印をクリックして、”日本の名城散歩”へ行ってらっしゃ~い ませ。(ま)

(2分34秒)