さがみはらの森の変遷

森林は遷移を続けて最後はその土地に適した姿(極相林)で安定すると言われています。太古の森林の姿は遺跡調査時に花粉化石を調べると周辺の森林の様子が分かります。近世以降の森林のほとんどは手が加えられて利用され、原生林(ブナ)は丹沢にわずかに残っています。そして近年になり森林の多くが放置されて現在の姿になっています。

旧石器時代の森

田名向原遺跡

田名向原遺跡の建物想定復元 (旧石器ハテナ館)

田名向原遺跡の建物想定復元
(旧石器ハテナ館)

針広混交林の例(北海道)

針広混交林の例(北海道)

旧石器時代(2万年前)の田名向原遺跡の時代は、気温が現在より7~8度低く、今の北海道のような気候で針広混交林の森林が広がっていたと考えられています。

【出典・参考】
左写真:[針広混交林(天塩研究林)]より / 右写真:[旧石器ハテナ館]より/ [田名向原遺跡]

縄文時代の森

勝坂遺跡

勝坂遺跡公園の竪穴住居復元

勝坂遺跡公園の竪穴住居復元

照葉樹林の例(屋久島)

照葉樹林の例(屋久島)

縄文時代中期(5千年前)の勝坂遺跡の時代は、気温が現在より2~3度高く、常緑広葉樹の照葉樹林が広がり、縄文人はクリを栽培して食料や建築材にしていたと考えられています。

【出典・参考】
左写真:「屋久島自然館」より/右写真:[史跡勝坂遺跡公園]より/ 「勝坂遺跡有鹿谷地点」(相模原市教育委員会)

江戸時代以降の森

奧山林の変遷

相州津久井領絵図(江戸時代、原本は個人所有)

相州津久井領絵図(江戸時代、原本は個人所有)

江戸時代は御林(幕府領)や入会山(共同利用地)から松・雑木や薪炭を、相模川を下って厚木に集め(集木アツメギ)、平塚から海路で江戸まで運びました。
太平洋戦争後の復興需要で拡大造林が行われ、奥山の広葉樹林は伐採され針葉樹が植林されました。
しかし安価な輸入木材の拡大で植林された針葉樹林は放置されるようになりました。

【出典・参考】
右図:『津久井の古地図』(ふるさと津久井第3号:津久井町史編集委員会)より / 「津久井町史(通史編)」 / 「神奈川県林政史」(大野図書館所蔵)

里山林の変遷

2018自給率江戸時代に百姓林と言われた雑木の里山林は薪炭と肥料の供給源でした。
1960年頃の化石燃料と化学肥料の普及で里山林の役割は無くなり放置されました。
拡大造林時には里山の一部にも針葉樹が植林されましたが、奥山林と同様に輸入木材の拡大で放置されるようになりました。

【出典・参考】
右図:[ナイスビジネスレポート]より

平地林の変遷

相模原台地は江戸時代の大きな新田開発でクヌギ・コナラを植林して炭を作っていました。

太平洋戦争後の食糧難時に畑に転換されていき、化石燃料と化学肥料の普及で雑木林は放置されました。

1973年に「相模原近郊緑地特別保全地区」として指定された「木もれびの森」が保全・手入れされてきました。

【出典・参考】
右図:「木もれびの森ガイド」より

今後の森

森林の将来像

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相模原市では平成23年に森林の目指すべき将来像と取り組みの方向性を示す「さがみはら森林ビジョン」を策定し、さまざまな施策に取り組んでいます。

森林の手入れ

手入れが行き届かず市民や生物への影響が大きい森林は、その自然変化を考慮して森林タイプに合った手入れをしていく必要があります。