<清新みなはし歴史散歩_Vol.1>清兵衛新田ができたころ

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◆大河原(南橋本)のあゆみ
大河原が属する清新地区は、相原野とよばれた300町歩の広大な土地で、東は小山村と西の横山沿いに山林があった程度で一面の萱野でした。
小山、橋本、相原、上九沢、下九沢、大島、田名の7ヶ村で構成する「入会組合」で所有していました。
新田の開発は、三分の二にあたる200町歩を天保14年(1843年)に代官:江川太郎左衛門の許可で、小山村の原清兵衛光保によって10年かけて行われました。

参考:町歩
一辺の長さが1町の正方形の面積(1町が60歩なので 3,600歩)を1町(1町歩)としていました。太閤検地の際に 3,000歩(坪)を1町としましたが、メートル条約加入後の1891年に、度量衡法により300,000アールを3,025町と定めました。1町は99.17355アール(0.99174ヘクタール、9,917.35537平方メートル)、1平方キロメートルは100.8333町となります。1町は1ヘクタールに非常に近い値ですので、200町歩の大きさを想像してみて下さい。
200町歩は200ヘクタールに近いので、イメージとしては東京ドーム約42個分になるようです。

開墾組名 戸数 井戸数 出身地
大河原 8戸 2ヶ所 小山4名、九沢2名、田名2名で橋本の大河原地区の人が多く、大河原の地名がつけられました。
原 組 7戸 1ヶ所 小山5名、田名1名、上溝1名、橋本の宮上から入植した人が多く、今でも、小山、原の姓が残っています。
横 山 11戸 2ヶ所 九沢9名、田名3名、上溝2名、愛甲郡・熊坂1名、田名新開とも言われるように、田名方面の人が多くいました。
やがけ 6戸 2ヶ所 小山3名、当麻2名、武州多摩郡1名、今も宮下にやがけの地名がありますが、その地の次男・三男が入植しました。
比丘口
(びくぐち)
17戸 6ヶ所 武州多摩郡10名、同入間郡4名、同都築郡1名、大住郡1名、当麻1名で武州からの入植は、原家が経営していた醸造業の取引先が、武州にあったと言われています。

入植したのは、上の表にある通り、49名で、主に小山、田名、下九沢出身の農家の次男、三男が多かったようです。
安政3年(1856年)に代官:江川太郎左衛門によって検地を受け「清兵衛新田」と名付けられました。
その後、有志によって明治45年(1912年)、氷川神社に開墾碑が建てられました。
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大河原(南橋本1丁目)には、「根上がり松」があります。
小山徳五郎さんが天保14年(1843年)に入植したのを記念して植えた松で、後に、雨で地盤が削られ、立派な根が出て来たそうです。現在は、根の部分は土にかくれていますが、地元の人は「小山さん」と呼ばず今でも「根上がり松」と屋号のように呼んでいます。
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清兵衛新田新田の1872年(明治5年)当時の入植者は、新旧対象図にある通りの皆さんです。
ご存じの方、いらっしゃいますか?
seibei_shinden_old_newその後、下の写真は、昭和22年の清兵衛新田エリアの空中撮影写真ですが、戦前とほんど変わらないようです。

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今後も南橋本に関係ある地域の資産(遺産)である歴史や「ウンチク」を掘り起こして参ります。
乞うご期待!! また地元の歴史、ウンチクをご存じの方や、昔の風景写真等お持ちの方がおられましたら、本ホームページのメールアドレスまでご連絡いただければ幸いです。宜しくお願い致します。
minahashi.jichikai@gmail.com
皆さんで南橋本の今昔物語を作ってみませんか。(お)
[参考文献:清新のしるべ]
[参考文献:1984年11月せいしん(清新小学校創立30周年を祝う会記念誌)]
[参考文献:2002年3月清新のしるべ(昭和編)]
[参考文献:Wikipedia,、面積変換サービス]