「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No81・伝説⑩ デイラボッチ)

デイラボッチなどと称される大男の活動が、地域の特徴的な地形を作ったとする伝説は全国各地に分布しており、市内でも、JR横浜線・淵野辺駅南口駅前の中央区鹿沼公園の中にある鹿沼(かぬま)が有名です。

鹿沼公園にある説明板には、デイラボッチが背負ってきた富士山があまりに重いので大山に腰かけて休み、立ち上がろうとした時に踏ん張った足跡が、鹿沼と横浜線の線路反対側にあった菖蒲沼(しょうぶぬま)になったと記されています。

写真は現在の鹿沼公園(平成13年[2001]6月10日撮影)と、昭和39年[1964]の埋め立て前の鹿沼で、かつては葦(あし)が茂る湿地だったと言われる様子が分かります。なお、博物館の建設準備以前の昭和30年代の写真は、すべて『相模原市史民俗編』に掲載されたものです。

 

次の写真は、現在の青山学院大学付近にあたる菖蒲沼の跡の弁天社で、今は祠(ほこら)と由来を記した説明板があります。下は昭和30年[1955]の菖蒲沼です。                

 

また、現在の相模原ゴルフクラブ東側から北里大学病院のあたりには、窪地になっているところがいくつかあり、その中には、デイラボッチがふんどしを引きずった跡のフンドシクボと言われているものもありました。写真は、中央区青葉の窪んでいるところが始まっている付近です(平成5年[1993] 2月23日)。                   

 

このほかにも市内には同様の伝承があり、小田急線東林間駅の南側には窪地があってデイラクボと呼ばれ、デイラサマという大男が何かをまたいだ足跡とされていました(昭和33年[1958]撮影)。                   

 

さらに、緑区相原の「めいめい塚」は、地元の方が書かれた本などにはいくつかの異なる伝説があったことが記されており、そのうちの一つは、デイラサマが履く足駄(あしだ・高下駄)の歯の間にはさまった土が落ちて塚のようになったので、デイラボッチと呼んだと言います(平成18年[2006]4月28日)。                   

今回のデイラボッチは、相模原の代表的な伝説の一つと言えますが、実は、日本の民俗学の祖である柳田国男(やなぎたくにお)が論文の中で鹿沼などに触れており(「ダイダラ坊の足跡」・昭和2年[1927]など)、古くから注目されていた伝説が市内にもあったことを紹介しておきたいと思います。

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