「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No72・伝説① 境川の流れに沿って)

伝説は、例えば木や石、あるいは神仏など、具体的なものにまつわる言い伝えですが、市内各地にも数多くの伝説があります。今回は、境川流域のいくつかの伝説を取り上げますが、写真は基本的に、本ブログNo.28でも紹介した平成16~17年[2004~05]に実施した民俗講座「境川流域を歩く」の際に撮影したものです。

最初の写真は、緑区川尻の「雨降地蔵」です。「雨降(あめふらし)」は地域の地名で、地蔵の先を進んでいくと境川の源流部になります。この地蔵に子どもが授かるようにお願いしたとか、近くに医者がいないので、地蔵様にお参りして病気が治ったという話が伝えられています。なお、この付近は旧城山町の最北部で、多摩丘陵を背にした農村の風景が広がっています。

 

次の写真は緑区広田の「下馬梅(げばうめ)」です。八王子城が豊臣秀吉の軍に攻められた際に、津久井城へ伝令に走った武士がこの地で津久井城が落城したと聞き、馬から下りて鞭(むち)の代わりに持っていた梅の枝を逆に突き刺したところ、その梅が根づいたと言われています。逆さに花が咲くので、逆さ梅とも呼ばれてきました。現在の梅は、以前のものが枯れてしまったため、新たに植樹したものです。

 

緑区東橋本の「蓬莱(ほうらい)橋」と、橋のたもとにある「勢至菩薩(せいしぼさつ)」は本ブログNo.28でも紹介しました。蓬莱橋は、橋のたもとに小豆洗いバアサマの妖怪が出る、花嫁行列は通ってはいけないなど、さまざまな話が伝えられています。また、勢至菩薩は足の神として祀られ、草履(ぞうり)や絵馬などが供えられていたと言います。

                 

最後の写真は、中央区東淵野辺の「縁切り榎(えのき)」と「中里橋」です。南北朝時代に淵辺義博(ふちべよしひろ)という武士が、宮城県の石巻に落ちのびるに際し、妻子と縁を切った場所なので「縁切り榎」(この写真は平成13年[2001]6月撮影)、中里橋は別れを惜しんだ「別れ橋」「縁切り橋」で、前の蓬莱橋と同様に、嫁入り行列は通ってはいけないとされていました(かつては別の場所だったとも言われます)。なお、淵辺義博の伝説は改めて紹介します。

このように市内には興味深い伝説が数多く残されており、これまで取り上げてきた内容も交えながら、今後とも毎回テーマを決めながら伝説を紹介していきたいと思います。

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