「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No69・大山への道しるべ②)

前回に引き続き、津久井地域の大山道標(おおやまどうひょう)を中心に紹介します。

最初の写真は、緑区原宿で、町田市大戸から緑区川尻に入り、川尻八幡宮の前を通って、相模川の小倉の渡しに至る道にあったものです。安永9年[1780]造で上部に不動尊の座像が乗り、「大山」の文字のほか、「西 津久井みち」「東 江戸八王子道」などと記されています。

実はこの大山道標には、位置の関係で写真撮影が難しい反対の面に「小くら船場道」とあり、船による運送を生業とする高瀬講中の者たちが建てたもので、大山へ行くための参詣人を、自分たちが営む渡船場に向わせる目的があったものと考えられています。

次の写真は緑区青野原・梶野地区の明和5年[1768]造で、庚申塔(こうしんとう)ですが「南大山道」「西道志路」などと記されています。この場所は、青野原から緑区鳥屋(とや)を経て清川村宮ヶ瀬(現在は宮ヶ瀬湖のため水没)に至るところに当たり、さらに、ここで北及び西方面からの道が合流しました。

                  

 

次のものは西側の道にあった道標の一つで、同じく青野原・西野々〈にしのの〉地区の享和3年[1803]造です。正面の「大山道」ほか、「右まきのみち(緑区牧野)」「左あおねみち(緑区青根)」と記され、北側の牧野からの道が、西側の青根からの道に合流する地点であることが分かります。

 

最後の写真は、緑区牧野・大鐘地区の代参講中による安永3年[1774]造です。大きな角柱塔に深く立派な彫りで大山道とあり、この3文字の中に米一升が入るよう祈りを込めて彫られたとされています。作った石工名も記されており、江戸時代に石工の職人が多くいたことで有名な信州(長野県)高遠(たかとお)の田原村儀右衛門の作です。

なお、この大山道標のある場所にはほかにもいくつかの石仏があり、閻魔(えんま)像が目を引きます。念仏供養塔として延享2年[1745]の造立です。子どもが嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれると言ってしつけをしたという話が残されています。

 

2回にわたって大山道標を中心として石仏を取り上げてきました。博物館にももちろん多くの石仏の写真を保管しており、特徴的で興味深いものも数多くあります。今後、そうした石仏なども紹介していきたいと思います。

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