「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No76・伝説⑤ 塚にまつわる伝説)

今回は「塚」を取り上げます。平らな地形のところに土などが盛られて高くなっている場所が見られると、何か由来があるものと考えられてきました。

最初の写真は、南区当麻の「馬塚」(「名馬塚(めいばづか)」とも呼ばれていました)です。いつの時代にどのような馬が埋められたかは伝えられていませんが、実は七世紀に築かれた古墳で、「当麻東原(あずまはら)古墳」として市指定史跡となっています。実際に馬に乗る際の道具なども副葬品として出土しており、そうしたことが古墳を名馬を埋めた塚という言い伝えに繋がったのかもしれません(平成11年[1999]10月11日撮影)。

次の写真は中央区上溝の浅間(せんげん)神社です。この神社は久保集落で祀っていますが、元々は地元の旧家が創建したとか、宝永4年[1707]に富士山が噴火した際に、降り積もった火山灰を集めて塚を作り、富士山の守護神である浅間神社を祀ったとも言われます。現在は境内を整備し、社殿全体が高くなっています(平成11年[1999]11月18日)。

こうした富士山に関わる塚と言われるものは津久井地域にもあります。次の写真は緑区根小屋の富士塚で、塚の上には浅間神社の石碑が祀られています。ただし、この塚は津久井城が攻められた際に、城兵の首を埋葬した首塚との江戸時代の資料もあり、時間の経過とともに言い伝えの内容も変わっていったことがうかがえます(平成18年[2006]年7月4日)。

一里塚(いちりづか)は、主要な街道の一里(約4㎞)ごとに土を盛って木を植え、距離の目安としたものです。津久井地域には、江戸時代の五街道の一つである甲州道中(甲州街道)が通っていますが、写真は緑区小渕の一里塚のあったところの榎(えのき)の木です。このほかにも道沿いには点々と一里塚の跡と言われるところが残っています(平成20年[2008]3月12日)。

また、次の写真は南区新戸の一里塚の跡です。こちらの一里塚は徳川家康の棺(ひつぎ)を、静岡の久能山から日光まで府中道を通って運ぶ際に築かれたと言われています(平成15年[2003]年4月15日)。現在は残念ながら地名標柱しか新戸地区にありませんが、この時の一里塚は町田市木曽町と小野路町に残っており、二枚目の写真は木曽町のものです(平成17年2005]4月8日)。

最後の写真は、中央区共和の新田稲荷神社境内にある「呼ばわり山」です。塚というよりむしろ小山ですが、迷子や行方不明の者を探す際に、この上で鉦(かね)や太鼓を叩いて名前を呼ぶと尋ね当てることができたと伝えられています。

そして、近年では、小惑星探査機「はやぶさ」が宇宙で消息が分からなくなった際に、発見祈願のためにJAXAの開発研究者が「呼ばわり山」をたびたび訪れたということでも評判になりました。伝説が現代にも通じた例として興味深いものです(平成13年[2001]6月10日)。

今回は、一里塚といった歴史的な構築物も広く紹介してみました。このように市内には、多くの史跡などがさまざまな言い伝えを伴いながら残されており、職員ブログでもいろいろな角度から取り上げてみたいと思います。

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