「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No51・地神講)

前回は、彼岸に行われる念仏講について取り上げましたが、このほかにも同じ信仰を持つ人々が集まって行う講にはさまざまなものがありました。

今回取り上げる地神講(じじんこう・じちんこう)はその名のとおり、土地の神・農業の神とされ、春分と秋分の日にもっとも近い社日(しゃにち・干支の戊[つちのえ]の日)に講を行い、この日は畑などに出て土を耕してはいけないとされていました。ちなみに今年の社日は、春が3月21日、秋は9月27日です。

最初の写真は、中央区田名の望地(もうち)地区の地神講(昭和63年[1988]3月20日撮影)で、地区の皆様が公会堂に集まり、歓談しています。また、床の間には掛け軸が飾られており、土の神として「地神埴山毘賣命(じじんはにやまひめのみこと)」と記されています。

 

職員ブログNo.49で紹介した中央区上溝・番田地区では、地神講の際に武神像が描かれた掛け軸を飾りました。各地の地神講で使われた掛け軸は、番田地区と同じ図柄が多く見られ、武神像を刷った掛け軸が各地に普及していました。

 

そうした中で次の写真は、明治45年(1912)の片野湘雲(かたのしょううん)画とされる手書きの掛け軸です。片野湘雲は明治8年(1875)生の上溝出身の日本画家ですが、やはり地神として武神像を描いています。南区当麻の下宿地神講からご寄贈いただきました。

 

地神講の資料としては、市内各地に見られる石仏もあります。相模原地区には地神塔が39基あり、「地神塔」などと記されています。造られた時期は寛政10年(1798)に始まり、ほとんどが明治7年(1874)までというように、江戸時代後期から明治初めの比較的短い期間に建てられたのが特徴です。

写真は中央区上矢部のもので、天保14年(1843)11月の造立です。

また、南区下溝には、五角柱の塔に神話上の五つの神名を記したものがあり、望地の地神講で飾られた埴山毘賣命(ここでの表記は「埴安媛命」)も記されています。この塔は安政3年(1856)の造立ですが地元では「雹塚(ひょうづか)」と呼ばれ、日本全国から土を持ってきて、雹による作物の被害がないように祈ったという言われがあります。

 

今回の石仏の写真は、平成15年(2003)度に実施した特別展「相模原の石仏―石仏が伝える地域の歴史―」の準備のために撮影したもので、博物館が保管する写真には、農作業や行事・祭礼等のほかにも、こうした石仏や伝説の地にまつわるものなど数多くあります。今後ともさまざまなテーマの基に紹介していきたいと思います。

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