標本を扱いながら思った事

今日は珍しく(?)学芸員みたいな仕事をしてしまいました。博物館の近くでクモを採集して、顕微鏡で調べたのです。
いつも通勤途中に観察をしているのですが、ある時、沢山のコクサグモが造網していた歩道沿いの植え込みが、きれいに剪定されてしまいました。ところがその後、コクサグモの幼体がまたちらほら現れたのです。時期的には、前回の出現より1~2ヶ月遅い感じです。果たしてこれが本当にコクサグモなのか、それとも別種ではないかと気になっていました。
クモの種類を正確に知るためには、成体を捕まえて、顕微鏡で生殖器の形態を調べる必要があります。毎日様子を見ていて、そろそろ成体になる頃だと思い、採集しました。
結果は果たしてコクサグモでした。驚いたことに、かなり小さくて「幼体では?」と疑っていた個体も全て成体だったことです。
同じ時期の個体のサイズにかなりのバラツキがありそうなこともこれでわかりました。
ところで「顕微鏡で観察」という作業は普通、クモを生かしたまますることができません。
アルコールに浸けた状態で見るのです。久しぶりにやってみると、少し心が痛みました。昆虫などの生き物を対象にしている人は皆、経験がある事と思いますが、こういった作業を繰り返しているうちにどこかで「かわいそうだ」と考える事がなくなります。私は今、博物館で働いているので「記録として標本を残す」という大義名分がありますが、それでもどこかで「かわいそうだ」と思う心のスイッチを切っているのです。その事を久しぶりにに意識しました。そのうち、生き物を殺さなくても完璧な記録が採れるような技術が開発されるかもしれません。そうなればいいな、と思う一方、実物記録としての標本がない世界というものを心の何処かで否定しています。
これは古くからある議論なので、おいそれと結論が出るものではないのですが、ちょっとした作業をする事で思わず初心に帰る事ができました。(学芸班 木村)

カテゴリー: 学芸員のひとりごと パーマリンク