「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No78・伝説⑦ 淵辺義博伝説)

本ブログNo.72「境川の流れに沿って」で、淵野辺地区の淵辺義博(ふちべよしひろ)にまつわる「縁切り榎(えのき)」と「縁切り橋」を取り上げましたが、今回は改めて淵辺義博に関する伝説を紹介したいと思います。

義博は、足利尊氏の弟である直義(ただよし)の家臣で、淵野辺に館を構えていたとされ、後の江戸時代後期に成立した『新編相模国風土記稿』にも、淵野辺村の北に館の跡として、当時は第六天の祠(ほこら)があることが記されています((平成13年[2001]6月10日撮影)。なお、現在は祠ではなく石塔になっていますが、石塔にかえた時に行われた儀礼の様子を写した写真も保管しています(中央区淵野辺本町・昭和61年[1986]6月3日)。

                  

義博の館跡とされるところは近くにもう1か所あり、昭和49年[1974]に建てられた碑があります(平成17年[2005]4月8日)。

 

淵辺義博は境川の縁に住み、住民にたびたび災いをもたらした大蛇または龍を退治しました。そして、この大蛇の体を三か所に埋めてその上には寺が建立され、中央区東淵野辺の龍像寺(りゅうぞうじ)はそのうちの一つの寺とされています(残りの二つは廃寺・平成13年[2001]6月3日)。

 

このような淵辺義博ですが、南北朝時代の様相を描いた軍記物(ぐんきもの)である「太平記(たいへいき)」には、後醍醐天皇の子である護良親王を殺害したと記されています。ところが、淵野辺では実際には殺害しておらず、鎌倉から淵野辺に戻った後に、親王とともに遠く宮城県石巻市に逃げのびたと伝えられています。

この時、義博は境川の榎のところで妻子と縁を切ったので「縁切り榎」、中里橋のたもとで別れを惜しんだので「別れ橋」あるいは「縁切り橋」とされています(橋があったのはかつては別の場所とも言われます・いずれも平成13年[2001]6月10日)。

ちなみに親王は石巻に逃れてこの地で暮らし、石巻には、当地で亡くなった親王をまつる一皇子神社(いちおうじじんじゃ)をはじめ、関連する地名なども残されています。写真は一皇子神社です。

書物に書かれたものと地域に伝承として残る姿は大きく異なりますが、淵野辺では大蛇を退治して地元を大いに助け、さらに親王を石巻に逃した英雄として淵辺義博の伝説が語られてきたと言うことができます。

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