博物館周辺の木々がだいぶ色づいてきました。
駐車場のタカオカエデ(イロハモミジ)はさすが、紅葉のシンボル的存在です。
同じく駐車場のエノキは黄葉です。青空に映える色ですね。
紅葉は地面にも広がっています。サクラの葉は一足先に落葉し、地面で美しく色づいています。
お隣の樹林地の遊歩道も色とりどりの落葉で覆われ、思わず下を向いて歩いてしまいます。
晩秋は足早に去りつつあり、あっという間に冬がやってきそうです。
博物館周辺の木々がだいぶ色づいてきました。
駐車場のタカオカエデ(イロハモミジ)はさすが、紅葉のシンボル的存在です。
同じく駐車場のエノキは黄葉です。青空に映える色ですね。
紅葉は地面にも広がっています。サクラの葉は一足先に落葉し、地面で美しく色づいています。
お隣の樹林地の遊歩道も色とりどりの落葉で覆われ、思わず下を向いて歩いてしまいます。
晩秋は足早に去りつつあり、あっという間に冬がやってきそうです。
相模原市立博物館は今年で開館25周年を迎えます。すでにロゴマークがあちこちに表示されています。
今日(11月12日)は、週末から始まる企画展のポスター展示の準備を行いました。歴代の企画展ポスターから、年ごとに1枚ずつを選んでエントランスに展示します。
イベント全体のポスターやチラシの発送作業も並行して行っています。
奥の方に見える巨大なオブジェは・・バースデーケーキを模したもので、来館者のみなさんにデコレーションしていただこうと考えています。
そして、記念のポストカードも作りました!近々ミュージアムショップで販売予定です。
ちょっとマニアックな当館所蔵の資料や、博物館の周辺に生息する野鳥など、バラエティに富んだ7枚組です。
25周年イベントの詳細については近日中に博物館ホームページや、広報さがみはらでもお知らせいたします。お楽しみに!
根小屋地区 ムササビも待つ パークセンター
絵札に描かれている背景の山は、城山と呼ばれる緑区の津久井城跡で、現在、城山や津久井湖周辺などが県立津久井湖城山公園となっています。
また、絵札下部に描かれているのは、この公園の管理を行っている「パークセンター」です。
この津久井湖城山公園のキャラクターが「武者サビ君」といい、城の歴史と山に生息するムササビからイメージしたそうです。
神奈川県立津久井城山センターホームページ(クリックするとリンクが開きます)
ムササビは、ネズミ目リス科に属する日本固有の哺乳類です。前肢と後肢の間にある皮膜を広げて滑空する事で知られています。尾の先まで含めた大きさは70-80cmほどあり、皮膜を広げた姿はしばしば「空飛ぶ座布団」と例えられます。
樹木内の空洞などに営巣し、夜になるとそこから出てきて枝の上を移動しながら葉や実を食べたり、他の木に飛び移ったりします。
多摩丘陵や丹沢山地周辺ではかつて広範囲に生息していたものが、樹林地の減少や分断により生息範囲が狭まっていると言われています。
行動する時に、鳴き声によるコミュニケーションを行う事も知られています。夜「グルルル…」という鳴き声がするので「怪物では?」とテレビ番組で取り上げられる事もあるようです。
江戸時代には「野ぶすま」という妖怪と同一視されていたとか。
城山公園は、かつて津久井城があった場所です。その頃にもムササビが生息していたとすれば、当時の人は結構怖がっていたかも知れませんね。
今回紹介するエビス講は11月20日の年中行事です。このエビス講は1月20日にも行われ、エビスが1月20日に働きに出かけて、11月に帰ってくるという話は多くの地域で聞くことができます。市内でもエビス講は盛んで、各家で両日ともエビス・大黒を祀り、さまざまなお供え物をしました。
最初のモノクロの写真は、平成元年度制作の文化財記録映画「相模原の年中行事」において緑区大島で撮影したもので、普段はエビス・大黒像を台所で祀っていますが、前日の19日の「宵(よい)エビス」に床の間に移します。そして、20日朝に小豆飯や煮物などをエビス(向かって左)と大黒(同右)に供えます。また、エビス講には尾頭付きの魚を供えることが多く、この家では、二匹の鯛を腹合わせにして藁で吊るしているのが特徴です(平成元年[1989]11月19・20日撮影)。
年に二回行われるエビス講の行事内容はほぼ同じで、次の写真はいずれも昭和63年(1988)1月20日の撮影です。最初は南区下溝で、木像の比較的大きなエビス大黒像を神棚の下に出し、やはり尾頭付きの魚や高盛りの飯・ケンチン汁などを供えています。次の写真は緑区大島の別の家で、魚は二匹ですが腹合わせではなく、木像のほかに掛け軸も飾っています。
先ほどエビス講では正月に働きに出かけ、11月に帰ってくるという伝承を紹介しました。そのためエビス講では金も供え、1月ではたくさん稼いでくれるようにお願いして、11月にはよく稼いでくれたということで1月より多くの金をお供えすることが見られました。
最初の写真では桝(ます)に財布を入れて供えています(昭和59年[1984]11月20・南区当麻)。もう一枚は文化財記録映画「相模原の年中行事」での撮影で、左側に一升桝の桶が見えますが、この中に金や預金通帳を入れて、作物の収穫の感謝と預金増額のお礼をしました(平成元年[1989]11月20日・緑区橋本)
ところで、この職員ブログで紹介している写真は博物館建設準備に伴うもので、合併以前でもあるため当時の津久井地域の写真はかなり少なくなります。それでも合併後やそれ以前に津久井地域で撮影された写真もあり、次の写真は緑区根小屋で、この家では他でもよく見られる尾頭付きのほかに、柿や大根・ニンジンなどの野菜の煮物の上に油揚げを載せたものを供えています。この油揚げを載せた野菜の煮物は、当家だけでなく比較的近所の家でも作っているものの、柿を供えるのはあまり見られないそうです(平成24年[2012]11月20日)。
11月下旬は忙しい農作業もようやく一息つく時期で、12月に入ると山仕事や藁細工などの冬場の作業があります。そして、新年を迎えるに当たっての準備も始まり、この職員ブログでも冬や正月がテーマとなっていくことになります。

小田急相模原駅は、駅前の再開発によって現在では大きく発展しています。
平成17年3月24日に北口の駅前ロータリーが閉鎖され、東側に仮設の駅前広場とロータリーが移転し、北口旧広場にラクアル・オダサガが建設され、平成19年12月に開業しました。また、行幸道路の北側に、商業施設と居住施設を備えたペアナードオダサガが建設され、平成25年10月10日に開業しました。この2つの建物が絵札に描かれているツインビルです。
昔からの街並みが変化していくのは時代の流れとも言えます。今回は、小田急相模原にまつわる歴史の一部を2点、紹介いたします。
①中和田新開
明治のはじめまで、現在の県道町田厚木線のあたりは一面原野でした。しかし今から約140年前の明治13年頃、この土地を開発し、耕地として利用しようとした人がいました。綾瀬村蓼川(たでかわ)に住む平出富士太郎その人です。仲間であった鈴木孫七らの協力を得て、この周辺を切り開きました。この開墾が、後の臨時東京第三陸軍病院の新設などにつながります。この開拓を、平出富士太郎の出身地から「蓼川新開」、または上鶴間の中和田集落の範囲であったことから「中和田新開」と呼称されました。「新開」とは明治時代の新たな開拓のことです(江戸時代は「新田」)。
②臨時東京第三陸軍病院
今から83年前の昭和12年の陸軍士官学校移転後、本市域や座間市域では、相模原駅~淵野辺駅周辺や、相模大野駅~座間駅周辺を中心に相模陸軍造兵廠、陸軍兵器学校、臨時東京第三陸軍病院、相模原陸軍病院、陸軍士官学校練兵場など、多くの軍関連施設が設置されました。
小田急相模原駅の付近には、陸軍第一電信連隊、臨時東京第三陸軍病院が位置しています。今回はこの臨時東京第三陸軍病院を紹介します。
この病院は昭和13年3月に開院し、日中戦争での負傷者を主な対象として、当時の最新の医療機器が完備され、社会復帰のためのリハビリも行っていました。ちなみに「第三」と呼称されるのは、戦線拡大に伴い、東京都新宿や、同目黒につくられた臨時陸軍病院に続いて設立されたためです。
現在では国立病院機構 相模原病院となっています。昭和天皇の行幸が昭和14年3月1日に行われ、行幸記念碑が同病院の正門付近に今でもあります。
中和田新開が駅前の発展の基礎であり、その後、陸軍関連施設の建設など、今の現状からは想像しにくいと思いますが、地域に残る歴史を紐解くことで、先人たちの業績を改めて知ることができます。
*このかるたは当館のボランティア「市民学芸員」が2017年に制作したものです。
*このかるたは相模原市立博物館にて貸出し可能です(現在は当面の間、貸出しを休止しております)。
*貸出しの詳細やその他このかるたに関心のある方は、博物館までお問い合わせください(042-750-8030)
*貸出し使用時には感染症予防のため、事前・事後の手洗い・消毒などを必ず行ってください。
11月6日、博物館のご近所にある大野村いつきの保育園にお邪魔しました。
こちらの年長さんたちが、6月から毎週お散歩途中に来館して、カイコの観察、そしてお絵かきした作品などを披露してくれていました。
今回お邪魔したのは、なんとこの保育園に「かいこランド」ができている!と伺ったからです。園舎に上がるとすぐに園児の皆さんがお出迎え、そして作品を説明してくれました。
素敵な作品を鑑賞した後、階段を上ると一人の園児が自ら設計、製作した“がしゃぽん”が!
ハンドルを回すとちゃんとカプセルが出てきて、中には手作りの繭のマスコットや、お手紙が!!
さらに階段を上ると、3階の小部屋にはカイコのお部屋があり、カイコに扮したかわいい園児さんたちが待っていました。
そして、最後に大きなお部屋に通されると、創作絵本の朗読、さらにみなさんが整列して、「かいこのめいさんち」という歌を披露してくれました。園児たちが作詞したそうで、大きな声で楽しそうに歌う姿に感動しました。
心のこもったおもてなしの数々に感激しっぱなしでしたが、それは何より園児たちがカイコを観察して思ったこと、考えたことを全力で形にしていることが感じられたからです。創作絵本もストーリーと絵をすべて自分たちで考えて作ったそうです。自由で素直な筆致からは、園児たちのカイコへの愛情があふれ出ていました。
かいこランドには、一人一人の子どもの個性を尊重し、信頼を寄せる大人の愛情も同時に感じられました。
時間を忘れる楽園のようなひと時を過ごし、澄み切った秋空のような気分でかいこランドを後にしました。
11月6日、相模川へ行き、相模原を代表する絶滅危惧植物、カワラノギクの開花の様子を確認してきました。
今年は少し遅めの開花でしたが、しっかり咲いていました。
市民・事業者・行政のパートナーシップによる水環境保全を進める、桂川・相模川流域協議会の方々が、草刈りなどを熱心に続けられている結果、維持されている保全圃場です。この圃場のカワラノギクは、もともとこの河原に自生していた種子から増やしているため、周辺にも広がった株はそのまま生育させています。そんな中には、一つの株に薄紫と白の二色の花が咲いているものもありました。
少し下流ではカワラハハコも咲いています。
ただ、昨年の台風19号の出水によりカワラハハコの大群落があった場所は流失し、残った株はわずかでした。
でも、こうした環境にあえて生育する植物です。きっとまた大群落を復活させてくれると信じています。
ところどころに生えていたヌルデはすっかり紅葉していました。
河原の秋も深まりつつあります。
10/31からミニ展示「歴代五輪ポスター展-1896~1976-」が、常設展示の自然・歴史展示室出口付近にて始まりました。
東京2020オリンピック・パラリンピックが1年延期されたことに伴い、当館でも予定していたオリンピック関係企画展が延期となってしまいました。そのため、大会への機運を盛り上げることを目的に、今年度はこうしたミニ展示を開催しています。
今回の「歴代五輪ポスター展」は、1896年(明治29年)の近代オリンピック第1回アテネ大会(ギリシャ)から1976年(昭和51年)の第21回モントリオール大会(カナダ)までの、18枚の夏季五輪大会ポスターを展示しています。
21回なのに18枚?と思われた方もいるでしょうか。3枚足りないのは、実は、1916年(大正6年)の第6回ベルリン大会、1940年(昭和15年)の第12回東京大会、1944年(昭和19年)の第13回ロンドン大会が、戦争により中止になったためです。
昨年の大河ドラマ「いだてん」をご覧になった方は、主人公たちがオリンピック中止に悲しむシーンがあったことを思い出されたのではないでしょうか。
今回展示したポスターは、市民の方から寄贈された貴重な資料で、18枚のポスターのほか、各大会の概要などがわかる資料とセットになっています。
そこで、各大会の参加国数、出場選手数及び日本人選手の活躍などもあわせて解説パネルで紹介していますので、ぜひご覧いただければ幸いです。
このミニ展示は12月20日(日)まで開催予定です。
サツマイモや陸稲(リクトウ・オカボ)の収穫に忙しいこの頃は、冬作の麦類(大麦・小麦)の種蒔きの時期で、10月下旬から11月上旬にかけて小麦を蒔き、その後に大麦を蒔きました。かつては、次回取り上げる予定の11月20日のエビス講までに蒔き終えるのを目安としていました。
今回も昭和62年(1987)度制作・文化財記録映画第六作「相模原の畑作」において、中央区田名で撮影された麦蒔きを中心とした写真を紹介します。
最初の写真は陸稲を植えていた畑に小麦を蒔くために、畑を耕しているところです。陸稲は畑にまだ麦が残っている時に蒔きますが、麦は陸稲収穫後の畑をうなって(耕すこと)種を蒔きます。
麦の種も陸稲と同様に肥料と混ぜて蒔くのが普通で、別々に蒔くよりも手間が省けるとも言われました。肥料と混ぜた種を、ツミオケと呼ばれる桶に入れて蒔いていきます。それが後には、種を入れて振るように蒔く播種器が出てきて、先に肥料を撒いて後から種を振ることも行われるようになりました。写真では、奥のツミオケで蒔く手前で播種器を振る様子が見えます。
麦は陸稲だけでなく、サツマイモ畑にも蒔きます。サツマイモは芋を鍬で掘り出して収穫するため耕した状態と同じになるため、蒔き溝を付ければ播種できます。写真では、前回の職員ブログで紹介した、サツマイモを保存するために畑に掘った穴の目印に差した藁束が左奥に見えています。
そして、麦を蒔いたところに陸稲と同じく、足で土を蹴るようにして種の上に掛けていくホウリモノの作業を行います(以上、昭和62年(1987)11月8日撮影)。
冬場の寒い時期に畑にある麦は、霜柱などで根が浮き上がらないように何回か麦踏みをする必要があります。映画では昭和63年(1988)1月15日に麦踏みを撮影しましたが、この頃の小麦は写真のような様子で、麦の状況を見ながら踏んでいきます。
また、やはり寒い時期なので、麦株の北側に土を寄せて風をよけ、太陽がよく当たるようにしたり、さらに、刈り取っただけで畑に残ったままの陸稲の根を掻き出す作業などもありました(以上、1月15日撮影)。なお、陸稲を蒔いた後の麦の根上げについては、職員ブログNo.30の「陸稲の収穫」で触れています。
この後もいくつかの作業を経て、これも職員ブログNo.13で紹介したように6月に麦の刈り取りと脱穀調製が行われました。収穫された大麦は米などと混ぜて主に自家の食事の麦飯に、小麦は粉に挽いてウドンや酒マンジュウの材料にするほか、出荷して売ることもありました。
畑が圧倒的に多かった市域にとって、大麦や小麦は日常食はもちろん、行事の際の食物の材料や販売用の現金収入源としても、この地域の生活を支える非常に重要なものの一つだったのです。
※11月4日は祝日翌日のため休館です。
博物館周辺の樹林で実施している野鳥の調査中、エナガの群に遭遇しました。小さくてかわいいエナガの群は、見ているだけで幸せな気持ちになります。
すると、エナガのチリリリという声より明らかに鋭いビリリリという声が聞こえてきました。4、5羽でエナガの群と行動を共にしているリュウキュウサンショウクイでした。
以前、このブログでも道保川公園(相模原市中央区)で撮影した写真をご紹介しましたが、この鳥も近年生息分布を急激に広げています。名前のとおり、琉球列島に生息するサンショウクイの亜種で、この10年ほどの間で越冬期にどんどん北上を続け、緑区の山中でも見られるようになりました。分布拡大の要因はまだよくわかっていません。
博物館周辺ではこれまで見られませんでしたが、この日は林内をずっと鳴きながら飛びまわっていました。なぜかエナガの群と一緒にいることが多く、どうも鳴き声が似ているということでなんとなくついていってしまうのかもしれません。今後、もともと本州の夏鳥である亜種サンショウクイとの亜種間関係がどうなるのかなど、何かと興味が尽きません。